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​古の日本(倭)の歴史(最新版)令和5年6月26日公開

          古の日本(倭)の歴史(最新版)

               はじめに

 『古の日本(倭)の歴史』とは、縄文時代晩期に入る3,000年前頃からの気候の寒冷化により南朝鮮(南韓、現在の大韓民国)の倭人(西日本縄文人)が華北人、江南人と朝鮮人(高句麗系)の南下に圧迫され列島へと帰来する、すなわち任那が滅亡し日本(列島)と朝鮮(半島)が地政学的かつ文化的に分断されるまでの歴史と捉えられる。この帰来がスサノオ(素戔嗚尊)の出雲侵攻やその後裔者(神武・饒速日・崇神など)による度重なる東征を引き起こし、飛鳥時代に日本国が成立するまでの過程が倭の歴史で、その過程が記されたのが『古事記』と『日本書記』(『記紀』)である。
 『魏志倭人伝』には「3世紀の古の日本(倭)には、女王卑弥呼の都とする邪馬台国があり、卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された」とある。とはいえ、『記紀』には、邪馬台国や卑弥呼に関する記述が一切見られない。また、銅鐸を祭祀として用いたと思われる大国主の国も全く無視されている。奈良県桜井市には、2世紀末から3世紀初めにかけて急速に発展した纒向遺跡がある。その遺跡内に最初の巨大な前方後円墳である箸墓(=大市墓)が威容を見せる。この箸墓の被葬者は定かでないが、『日本書紀』の「箸墓伝承」や宮内庁の治定では、箸墓の被葬者を第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命としている。近年の考古学や文献学の発展より、本著では「邪馬台国はヤマト国で、邪馬台国の中核は畿内の大和にあり、その中心は纏向遺跡で、卑弥呼は3世紀半ばに亡くなり箸墓に葬られた」と考える畿内説を採る。従って、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であると推察される。この推察を起点に歴史を遡り、あるいは辿り、多くの様々な史料、文献、書物やインターネット(Net)情報並びに近年著しく発展した古代人のDNA解析を含む考古学・人類学の膨大な知見を整合性をもたせるように統合することによって、旧石器時代から飛鳥時代までの『古の日本(倭)の歴史』Ne解説論文(https://www.yasutarofujita.com/)を構築した。
 『古の日本(倭)の歴史』は、5部構成、「第一部 (旧石器時代・縄文時代)、第2部(弥生時代早期・前期・中期)、第3部(弥生時代後期・邪馬台国(虚空見つ倭国))、第4部(古墳時代前期・中期)、第5部(古墳時代後期・飛鳥時代)」となっている。このうち、弥生時代後期・邪馬台国・古墳時代前期(神武から応神東征まで)については、文献学的あるいは考古学的証拠が乏しいにもかかわらず、著者が推敲を重ねたうえの直観に基づく、多くの未解明の歴史的事象を高い蓋然性を以て説明し得る斬新な歴史観を提示している。各部は、その時代の東アジアの情勢と倭の状況を解説し、個々の事象を図表・イラスト・写真を多く取り入れて説明する。その中に赤枠で囲った、あるいは赤字の著者の私見を散在させている。これらの図表・イラストやその説明の殆どは著書・文献・Net情報から引用したものである。この『古の日本(倭)の歴史』というNet解説論文で新たな知識が得られたり、あるいはインスピレーションを覚えられたら、このNet解説論文を引用して頂ければ幸いである。


 上記は『古の日本(倭)の歴史』 初版(2019年1月公表)の序論である。初版公表以来2年、2021年1月には改訂版、さらに2023年6月には最新版を公開した。(本歴史は​PowerPoint/PDFファイルとして公開しており、初版は384スライドから成り立っていたが、最新版は501スライドと内容を大幅に充実させた。)初版の公表以来4年余り、古代史に造詣が深い諸姉兄から数々の高説や異論を頂き、改訂の参考にさせて頂いた。また、過去4年、自ら本歴史に関連する数十のFacebook(FB)投稿を行っており、これらの投稿は全て筆者(藤田泰太郎)のタイムラインにリストされている。これらFB投稿を通じての同好の士との活発な議論・討議を重ね、本歴史をより洗練・充実させることが出来た。
 縄文時代は、1万年以上継続した持続可能な「森と水の文明」(狩猟、採取/栽培と漁撈)として世界に冠たるものである。この縄文文明を日本文化の基
層となっていると捉え、かつヒトのDNA解析を駆使して明らかになった「日本人成立のモデル」を提唱した。さらに、これまで混沌としていた「紀元前1世紀より4世紀までの倭国の歴史」をイザナギ・イザナミから始まる天孫族(すなわち皇統)の系譜として捉え、具体的な年代に基づく歴史として提示することが出来た。そして、この紀元前1~4世紀の倭国の歴史を天孫族による倭国平定の歴史として再構築した。
 『古の日本(倭)の歴史』の最新版も初版や改訂版と同様に、幾多の考古学的知見を忠実に反映しており、また日本国の正史と考えられる『記紀』をはじめ中国や朝鮮の正史と見なされる歴史書に記載の史実と解釈上の齟齬があるかと思うが、矛盾するところはない。かつ、ヒトのDNA解析や人類学なの自然科学的知見とも充分に整合性がとれている。しかしながら、 『記紀』の神代の記述(神話とされる)は、なんらかの史実を反映したものとは思うが、飛鳥時代の皇族や藤原氏をはじめとする有力氏族の都合のいいように改竄されていると思われる所が多々あることも事実である。 
 この度の最新版の公表で、『古の日本(倭)の歴史』の全貌をほぼ解明できたと考えている。しかし、『古の日本(倭)の歴史』の紀元前1~4世紀の倭国の歴史の構築に見られたように、自らのかならずしも完璧でない古代史の知見に基づいた直観と洞察により推察・構成した大胆な仮説を含み、すべてが実証されたものとはとてもいえない。将来、古代史研究者や考古学者により本歴史が順次実証されていくことを切に願っている。本最新版に対しても諸姉兄からの更なるご教授や意見を頂き、『古の日本(倭)の歴史』をさらに洗練・充実させることができれば幸甚の極み
である。
                                  2023年6月  藤田泰太郎

              古の日本(倭)の歴史 第1部

                  概略

第1部 旧石器時代・縄文時
1. 旧石器時代(260万年前~1.6万年前)
 
類人猿と区別される最初の人類が猿人であり約600万年前に誕生し、130万
年前頃まで生存していた。原人(ホモ・エレクトス)は、180万年前頃に誕生し、アフリカからアジア(北京原人、ジャワ原人など)に広がり、約10万年前頃に滅びた。旧人(ネアンデルタール人やデニソワ人)の祖先は40万年前頃にアフリカで誕生したのち、20万年前頃に出アフリカを果した。ネアンデルタール人は中東からヨーロッパへと広がり、デニソワ人はシベリアから東南アジアの広範な地域に広がった。これら旧人は3万年前頃に滅びた。現生人類である新人は20万年前頃、アフリカの旧人より誕生し、7万年前頃に出アフリカを果たし、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・カフカス山脈付近へ)の3ルートで拡散したとしている。すなわち南ルートをとった新人が東南アジアで北方と南方へ向かう集団に分かれ、前者は東アジアに広がった古モンゴロイドであり、後者がオーストラリアに入りオーストラロイドとなる。また、北ルートを取った集団がモンゴロイドとなり、西ルートの集団がコーカソイドとなった。これら3ルートの新人がイラン近傍でネアンデルタール人と交雑し、北ルートでアジアに向かった新人のうち東南アジアに向かい後にメラネシア人となった集団がデニソワ人と交雑したとみられている。尚、これら新人の集団が東アジアに到達したのは約4万年前といわれている。旧人は3万年前頃に滅びたと思われるが、新人がネアンデルタール人と共存したのは中東やヨーロッパでは数万年間、アジアでデニソワ人と共存したのは1万年程度と思われる。尤も、新人との接触だけが旧人の絶滅につながったわけではなく氷河期に入り気候の寒冷化もこの絶滅の原因のひとつと思われる。モンゴロイドはシベリアに進出し、先にシベリアに進出していたコーカソイドを圧倒し、さらにアメリカ大陸に進出した。南米に到達したのは1万年前といわれている。ヴェルム氷期(3万年前~1.5万年前、最盛期は1.8万年前)は極めて寒冷な時代にあたり、この氷期を生き延びたのは新人である。
 日本列島には原人や旧人の子孫も少なからず生息していたと考えられる。列島への新人の移動であるが、7万年前に出アフリカを果たした新人の中で、南ルートを取った集団の一部は東南アジアより海岸沿いに東アジアに向かい、少数が日本列島に到達していたと思われる(古華南人)。北ルートの新人がヒマラヤ山脈沿いに東アジアに到達したのは4万年前である。北ルートで東アジアに広がった新人(古華北人)の主たるY染色体系統はD型と考えられ、華北から順次列島に進出していった。
 
石器時代は、絶滅動物の存在と打製石器を使っていた時代の旧石器時代と現生動物の存在と磨製石器を使うようになった時代の新石器時代との二つに分けられる。旧石器時代は前期旧石器時代(260万年前~30万年前)、中期旧石器時代(30万年前~3万年前)と後期旧石器時代(3万年前~1.6万年前)に分かれる。日本列島には前期旧石器時代の原人・旧人の骨や遺跡は見つからず、中期旧石器時代の砂原遺跡(出雲市)が最古(約12万年前)でそれに続くのが金取遺跡(遠野市)(8-9万年前)であり、石器(ハンドアックスのような両面加工石等)や木炭粒が出土している。これらの遺跡は、旧人あるいは原人の残存者の活動の跡と見なされる。新人と思われる山下町洞人(沖縄、約3万2000年前の子供の大腿骨と脛骨)が国内最古級人骨の出土、さらに国内最古の全身骨格人骨(白保人)が出土した(約2万7000前、石垣島)。海洋民族(古華南人)の彼らは、南ルートで列島に到達し、さらに太平洋西岸、北岸を経てアメリカ沿岸に達していた可能性がある。3万年前の中期旧石器時代に入ると、新人の古華北人(Y染色体D2型(新D1a2a))が朝鮮半島経由((当時黄海は陸地化しており、必ずしも半島を経由する必要がない)でナイフ形石器を伴って断続的に日本列島に侵入してくる。その最大の集団の侵入は約2万年前であった。後期旧石器時代の遺跡は列島に広く分布し、神取遺跡(北杜市)からは台形石器と局部磨製石斧が出土した。港川人(1万7千年前の人骨、沖縄)や浜北人(1万6千年前の人骨、静岡)が出土、何れも新人の人骨化石と考えられている。後期旧石器時代には、良質の黒曜石を求めての丸木舟での交易も見られた。

2. 縄文時代(1.6万年前~2.8千年前)
 大平山元Ⅰ遺跡から1.6万年前の最古の縄文土器と思われる「無文土器」の出土をもって縄文時代の始期とする。縄文時代は1万年以上継続した持続可能な「森と水の文明」(狩猟、採取/栽培と漁撈)として世界に冠たるものと考える。
 朝鮮半島では縄文時代草創期の1.2万年前から早期の終結時の7千年前まで遺跡が殆どなくなる。このことは、南下した古華北人が半島に留まらずに、ほぼ陸橋化した対馬海峡を通過し一気に列島にまで侵入していったためと思われる。

(1) 縄文時代草創期(1.6万年前~1.0万年前)
 大平山元Ⅰ遺跡より世界最古級の縄文土器「無紋土器」や世界最古の石鏃が出土。また、局部磨製石斧、尖頭器などを特徴とする神子柴文化が起る。1.3万年前、古バイカル人(D2(D1a2a))はクサビ型細石刃を携え、樺太経由で東日本に南下、東日本縄文人の基層となる。また、その頃、古華北人(D2(D1a2a))が半円錐形石核を西日本に伝え、西日本縄文人と称される。以下、草創期の出土物を列挙する。佐世保市の泉福寺洞窟から、約1.3万年前の豆粒文土器と約1.2万年前の隆線文土器。神取遺跡(山梨)から隆起線文土器。鳥浜貝塚(福井)出土の漆の枝は世界最古の約 1.2万年前のものである。浦入遺跡(舞鶴市)から網漁に用いられた最古の打欠石錘。粥見井尻遺跡(松阪市)や相谷熊原遺跡(東近江市)から最古級の土偶(通称縄文のビーナス)出土。

(2) 縄文時代早期(1万年前~7千年前)
 縄文文化が定着する時代で伊豆諸島を一つの起点とするかなり広範囲な黒曜石などの海洋交易や漁撈の跡が認められる。早期の出土品を列挙する。浦入遺跡(舞鶴市)から桜皮巻き弓。垣ノ島遺跡(函館市)から幼子の足形や手形をつけて焼いた足形付土版や世界最古級の漆工芸品。雷下遺跡(市川市)から日本最古の丸木舟、夏島貝塚(横須賀市、最古級の貝塚)から撚糸文系土器や貝殻条痕文系土器が出土、沖合への漁撈活動を示す。栃原岩陰遺跡(北相木村)から人骨、ニホンオオカミの骨、精巧な骨製の釣針や縫い針。横尾貝塚(大分市)から姫島産黒曜石の大型石核や剥片、石材など、流通の拠点。上野原遺跡(霧島市、最古級の大規模な定住集落跡)から、貝文土器出土(貝文文化)。
 早期の終結時(7.3千年前)に鬼界カルデラ噴火があり、南九州・四国はアカホヤ火山灰に覆われ、貝文文化は消滅など、そこの縄文社会は壊滅した。生き延びた人々は北へと向い、そのうちのかなりの数の縄文人が当時殆ど無人であった南朝鮮(南韓)や沖縄に移住する。

(3)  縄文時代前期(7千年前~5.5千年前)
 アカホヤ火山灰の打撃を受けた南九州の縄文人は生き残りをかけて西北九州さらに南朝鮮に移住したと思われる。その頃から、西北九州と南朝鮮にかけての漁撈文化が栄えた。各地で沿岸漁業や交易が盛んになった。また、当時の南朝鮮に、縄文時代草創期の列島各地の隆起線文土器に酷似した朝鮮隆線文土器が現れ、その後櫛目文土器が現れた。
 遼寧省の興隆窪文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ査海遺跡(7,000年前)の墓地から、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が出土した。これらの興隆窪文化由来の玉は、桑野遺跡、鳥浜貝塚、清水上遺跡、浦入遺跡など日本海側の遺跡を中心に、全国に分布している。
 前期は気候が温暖化し始め、西日本には照葉樹林文化が東日本にはナラ林文化が流入してきた。鳥浜貝塚からは、スギ材の丸木舟、浦入遺跡からは最古級の外洋航海用丸木舟、赤色漆塗り櫛、小型弓や櫂などが出土した。さらに、朝寝鼻貝塚(岡山市)からは日本最古の稲(熱帯ジャポニカ)のプラントオパールが見つかった。三内丸山遺跡(青森市)からは、大規模集落跡、住居群、倉庫群、シンボル的な3層の掘立柱建物、板状土偶などが出土し、栗栽培、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培跡が見出された。また、千居遺跡(富士宮市)からは、富士信仰のためのストーンサークル、阿久遺跡(諏訪郡原村)からもストーンサークルが見つかる。その他、里浜貝塚(東松島市)は最大規模の貝塚で、そこの出土品から生業カレンダーが組まれた。さらに、栗山川流域遺跡群(千葉県多古町)からはムクノキの外洋丸木舟が、真脇遺跡(石川県能登町、世界最古のイルカ漁の捕鯨基地)から、船の櫂、磐笛が出土している。
 縄文時代(とくに前期と中期)には、西日本地区(照葉樹林帯)の各地と中国江南地区の各地は、それぞれ互いに交流していたと考えられる。熱帯ジャポニカは長江下流域から渡来した。

(4) 縄文時代中期(5.5千年~4.5千年前)
 縄文早期の1万年前氷河期が終り世界の気候は温暖化し、7千年前の縄文前期始めから気温が上がり、前期の終了時から中期の始めに最も気温が高くなる、いわゆる縄文海侵が最高に達した。この現在より気温の高くなった時期をプシンサーマル期と呼ぶ。縄文時代後期に入ると気候が冷涼化し始め、縄文時代晩期(弥生時代草創期)になると現在より気候が低い寒冷化期を迎えた。従って、プシンサーマル期の縄文時代中期始めが縄文文化の最盛期と捉えられる。
 気候が温暖化して青森市の三内丸山遺跡が最盛期を迎える。この遺跡の堀立柱建物の建築には殷尺に関連しているといわれる縄文尺が用いられていた。馬高遺跡(長岡市)や野首遺跡(十日町市)で縄文土器の円熟期を代表する火焔型や王冠型土器が出土する。また土偶も最盛期を迎え装飾性が高くなる。出土品は多岐にわたり、耳飾、石棒、ヒスイ製玉類、配石遺構などが見つかる。一の沢遺跡(笛吹市)からは太鼓に用いられた有孔鍔付土器、人面装飾付土器、埋甕、笛吹ヒスイの装身具、土偶の「いっちゃん」などが出土。また、国宝「縄文のビーナス」が長野県棚畑遺跡から、国宝「縄文の女神」が山形県西ノ前遺跡から出土。茅野市の尖石遺跡からは列石、黒曜石の交易、焼畑農耕の跡などが見られる。

 尚、縄文時代前期に続き岡山県の姫笹原遺跡からイネのプラントオパールが見つかっている。これらのイネのプラントオパールの形状から品種は熱帯ジャポニカと考えられ、焼畑を代表とする粗放な稲作であろう。
 
(5) 縄文時代後期(4.5千年~3.5千年前)
 プシンサーマル期が終わり気候の冷涼化が始まる。この冷涼化によりかなりの東日本縄文人の西日本への移住が始まる。後期末(3.6千年前)には殷王朝が成立している。
 三重県の丹生池ノ谷遺跡、天白遺跡や森添遺跡から辰砂による朱彩土器や朱が付いた磨石・石皿など出土。二子山石器製作遺跡(熊本)は石切り場・石器工房で、扁平打製石斧出土。智頭枕田遺跡(鳥取)から突帯文土器、大矢遺跡(天草市)からはオサンリ型結合釣針、土偶、岩偶が出土。大湯環状列石(秋田)のうちストーンサークルは万座と野中遺跡にあり、万座の方が日本で最大の日時計状組石である。忍路環状列石(小樽市)(ストーンサークル)に隣接する忍路土場遺跡の巨大木柱は、環状列石とも関連する祭祀的な道具であろう。蜆塚遺跡(浜松市)には円環状平地式の住居跡があり、首飾りや貝製腕輪を身につけた人骨、勾玉や土器、鉄鏃が出土。また、真脇遺跡(能登町)には環状木柱列(ウッドサークル)あり、巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、日本最古の仮面が出土。チカモリ遺跡(金沢市)では掘立柱の環状木柱列が発掘された。
 稲(熱帯ジャポニカ)、アワ、ソバ、大豆などの栽培に基づく生活文化、さらに神道の基盤となる精神文化もまた、江南から持ち込まれたと考えられる。さらには、渇鉄鉱などからの始原的な製鉄が始まったと思われる。尚、上代日本語となる古日本語(日本基語)は、南朝鮮と西日本一帯で縄文時代後期に成立したと思われ、少なくとも、水田稲作農耕技術の到来以前に既に成立していたと思われる。

(6) 縄文時代晩期(3.3千年前~2.8千年前)
 縄文時代晩期は、水田稲作の開始を始めとする弥生時代早期(3.0千年前~2.8千年前)と終期を同じくするが、始期が300年早い。晩期になると気候が一層寒冷化する。この寒冷化は世界的規模で起こり、ゲルマンやアーリア民族が南下し、圧迫された民族の逃避や文明の崩壊が見られた。中国や朝鮮でも畑作牧畜民(中原の漢民族)の南下が始まり、晩期の始めに殷が滅び周が起こり、晩期の終期には周が滅び中国は春秋時代に入った。日本では東日本縄文人(原アイヌ人、蝦夷)の西日本への移住が起った。この移住により東日本と西日本の縄文人の一体化が進んだ。中国での漢民族の南下は江南人を圧迫し周辺地域に逃避させ、一部は朝鮮半島南部や西北九州や西部日本海沿岸に達した。この避難民が南朝鮮や日本に水田稲作をもたらした。
 晩期に入ると気候の寒冷化により東日本縄文人が西日本に移住したため東日本縄文文化は衰退に向かった。しかし、この衰退にもかかわらず繁栄を続けていたのが、東北北部から北海道西南部を中心とする、原アイヌを主体とする縄文文化の極めて高度に成熟した亀ヶ岡文化が出現した。晩期の主な遺跡・出土品は次の通りである。
  菜畑遺跡(唐津市)から水田用の温帯ジャポニカ種の直播きの最古の水稲耕作跡、山の寺式土器出土。板付遺跡(福岡市)からは最初期の環濠集落と水稲耕作跡と夜臼式土器出土。南溝手遺跡(総社市)からはイネのプラントオパール、最古級の籾痕のある土器、石鍬や石包丁が出土。原山支石墓群(島原市、原山ドルメン)は、国内の支石墓遺跡としては最古最大級のものである。大石遺跡(豊後大野市)から大規模な建物址、黒色磨研土器、打製石斧(耕具)や横刃型石器(収穫具)出土。伊川津貝塚(いかわづ)(田原市)からは、スガイ・アサリなどの主鹹貝塚、抗争の痕跡を遺す人骨、抜歯した人骨、甕棺、土偶、耳飾、石刀、石棒、石冠、勾玉、骨角器など出土。亀ヶ岡文化の亀ヶ岡遺跡(つがる市、集落遺跡)で著名な遮光器土偶が出土。山王囲遺跡(さんのうがこい)(栗原市)からは、土製耳飾りやペンダント、編布(本州初の発見)、籃胎漆器・櫛・腕輪・耳飾り・紐状製品、ヌマガイの貝殻に漆を塗った貝器が出土。

ゲノム科学が解明した「日本人の成り立ち」

日本人成立のモデル.jpg

日本人成立のモデル
 
日本列島には前期旧石器時代の原人・旧人の骨や遺跡は見つからず、中期旧石器時代の砂原遺跡(出雲市)が最古(約12万年前)でそれに続くのが金取遺跡(遠野市)(8-9万年前)であり、石器(ハンドアックスのような両面加工石等)や木炭粒が出土している。これらの遺跡は年代的に新人(ホモサピエンス)の活動の跡とは思えず、旧人(デニソワ人か)あるいは原人の残存者の痕跡と見なされる。列島において新人の活動が本格化するようになるのは、3万年前に始まる後期旧石器時代になってからである。日本では旧石器時代に続く新石器時代を縄文時代と呼ぶが、縄文時代は世界最古級土器(縄文土器)が作られた1.6万年前を契機とし草創期に入る。この縄文文化は、1万年以上継続した持続可能な「森と水の文明」(狩猟、採取/栽培と漁撈)として世界に冠たる文明である。
 新人(ホモサピエンス)の日本列島への到達は、まず出アフリカ(7万年前)から南ルートを取った集団の一部が東南アジアより海岸沿いに東アジアに向かい、3.5万年前頃には列島に到達していた(古華南人、Y染色体ハプログループC1a1型か)。また、4万年前頃に北ルートで中央アジアに到達したY染色体D系列は、D1a1型(チベットに多い)とD1a2a型(日本特有)に分岐した。後者の集団は華北に移動し、さらに朝鮮半島経由でナイフ形石器を伴って断続的に列島に侵入してくる。その最大の集団の侵入は約2万年前で東北地方にまで達した。1.3万年前、古バイカル人(バイカル湖に達した古華北人)(D1a2a)は、クサビ型細石刃を携え、樺太経由で東日本に南下、東日本縄文人の基盤となる。その頃、古華北人が半円錐形石核を西日本に伝え、西日本縄文人と称される。従って、縄文人(西日本縄文人と東日本縄文人)は、古華南人を基層に古華北人と古バイカル人が重層し、3者が混雑して成立したと考えられる。
 朝鮮半島では縄文時代草創期の1.2万年前から早期の終結時の7千年前まで遺跡が殆どなくなり、新人の気配が絶える。このことは、南下した古華北人が半島に留まらずに、ほぼ陸橋化した対馬海峡を通過し一気に列島にまで侵入していったためと思われる。縄文時代早期と前期の境(7,000年前)に鬼界カルデラ噴火があり、南九州と四国の西日本縄文人は壊滅した。その災厄から逃れた西日本縄文人の一部は北へ向い、当時殆ど無人であった南朝鮮(南韓)に渡り、漁撈文化を興した。このように、朝鮮半島の新石器時代の原住民は西日本縄文人と考えられる。
 縄文時代前期・中期には汎地球的に気候が温暖化して、三内丸山遺跡に代表されるような高度な縄文文化が花開いた。当時の本州、九州、四国、南朝鮮は江南と同じく、照葉樹林帯にあり江南の農耕文化の影響を強く受けた。雑穀類や豆類の栽培が始まり、西日本では熱帯ジャポニカの畑作も始まった。また、後世の神道に通じる精神文化もこのころに醸成された。しかし、縄文時代後期からの汎地球的な気候の冷涼化により世界的な狩猟・畑作民の南下が始まった。日本列島でも冷涼化により東日本の食糧事情が悪化し、東日本縄文人の南下が始まり、東西の縄文人の均一化が進んだ。この頃、均一化した高度な縄文文化を基盤とし、日本語の原型、古日本語(日本基語)が西日本と南朝鮮(核は北西九州か)で形成された。
 Y染色体型O系列は、1万年前に華南でO1a、O1bとO2型へ分岐した。O系列(とくにO2)の拡散力は凄まじい。縄文時代晩期に気候が寒冷化しはじめると、北方にいたO2型は華北に移動し始めた。O2型はさらに人口を増やし古モンゴルや古華北人のC系列(C2)やD系型(D1a2a)を圧倒した。さらに春秋・戦国時代になると華南のO1aとO1b型を圧迫した。O1a型は台湾やフィリピンなどの島嶼部へ、O1b型はO1b1とO1b2型に分かれ、O1b1型は東南アジアへ、O1b2型は東に向かい南朝鮮や西日本へ逃れた。従って、弥生時代、呉や越などの滅亡により列島に渡来した江南人はO1b2型で、直接あるいは半島経由で列島に渡来した。その時期は弥生時代前期・中期と思われる。弥生時代の江南人の南朝鮮および西日本への流入は、南朝鮮ではO1b2型が優勢になったが、列島では倭人の古日本語やY染色体型(D1a2a)に大きな変動をもたらすほどの規模ではなかった。

 地球気候のさらなる寒冷化により朝鮮人(高句麗系Y染色体型C2)が半島東岸を南下、さらに華北人(O2、燕・漢など)が半島西側を南下した。弥生時代中期後葉の紀元前後になると、これらの民族移動と前漢の滅亡による楽浪郡の混乱により南朝鮮の西日本縄文人(倭人、D1a2a)が圧迫され初め、その一団が列島に帰来した。即ち、倭人の伊邪那岐・伊邪那美や素戔嗚の帰来、さらに瓊瓊杵や彦火明の筑前や丹後への降臨である。(実際、瓊瓊杵や饒速日(素戔嗚の末?)の子孫のY染色体型はD1a2aであったという。)伊邪那岐から瓊瓊杵までの系譜、即ち伽耶での天孫族の降臨までの系譜は、新羅王室の初期系譜に酷似している。これは、紀元前後の伽耶(後の新羅を含む)は倭人(西日本縄文人)により政治的に支配されており、初期新羅王室の系譜は伽耶倭人王室の系譜であったことに起因すると考える。さらに、2世紀の後漢の弱体化と地球規模の気候の寒冷化による朝鮮人(高句麗系C2)の南朝鮮へのさらなる南下が、第8代新羅王阿達羅の王子の天日鉾の帰来を引き起こし倭国大乱の引き金となった。また、南朝鮮に伽耶の後継国の任那が成立し、邪馬台国時代には中国王朝や三韓との外交を担った任那・伊都国連合を形成した。
 4世紀末に応神王朝が成立する頃から任那を核とする南朝鮮への倭国の軍事進出が顕著となり、それに伴って南朝鮮からの渡来人の来倭が目立ってきた。応神朝には、葛城襲津彦や倭軍の精鋭の助けにより新羅の妨害を排し、かつて秦韓に居住していた弓月君(秦氏の先祖)の民(1万人以上)(Y染色体O2型が大半と思われる)が渡来してきた。その頃、海部(あまべ)や山部などの土木技術者、大陸の学芸・技術をもった漢人(あやびと)など(O2型)も渡来した。その後も倭国と任那との経済的・政治的繋がりが続き三韓の百済人、新羅人、高句麗人(O1b2、O2、C2の混成)が断続的に渡来した。7世紀に入ると任那が新羅に滅ぼされ、さらに百済が新羅・唐の連合軍により滅亡した。その後、白村江の戦いで倭国の南朝鮮での失地回復を試みたが、新羅と唐の連合軍により大敗した。さらに、高句麗が新羅・唐により滅ぼされるに至った。この朝鮮半島の動乱により、南朝鮮の倭人(D1a2a)の多くが帰来し、また百済や高句麗の遺民が大挙倭国に渡来した(O1b2、O2、C2)。ここに、縄文前期始期の7千年前から綿々と続いた緊密な倭国と南朝鮮の政治的・経済的交流が地政学的に分断された。それ以来、日本と朝鮮との交流や交易が大幅に縮小され、日本語と韓国語(南朝鮮の言語)も乖離し始め、お互いに独自な発展と国造りが進められた。しかしながら、その後も歴史時代の長年の断続的な中国・朝鮮からの渡来人の来日や豊臣秀吉の朝鮮出兵での多数の捕虜の連行等があり、現在の日本人のY染色体組成は(C系列(C1a1+C2):D系列、Dla2a:O系列(O1b2:O2))= 8.5:40.8:(27.0:22.1)(比率%)と成っている。
 注目すべきことは、日本人のY染色体組成のO系列(O1b2とO2)の比率が49.1%に達することである。縄文時代前・中期の江南からの渡来者のY染色体系列はO型(Olb2)ではなく、日本人に少ないが有意なC1a1ではなかったかと類推する。何故なら、江南にO1b2系列が広がるのは地球の気候の寒冷化する縄文時代後期からと思われるからである。かくて、弥生時代になってからのO2型の拡大に圧迫された江南人(O1b2)が、倭国に小規模ながら断続的に渡来し始めた。一方、O系列O2が日本(倭国))に渡来し始めたのは3世紀半ばの古墳時代からと思われ、古墳時代以降にO2型がO1b2型と共に日本に渡来したと推察する。かくて、古墳時代以降の渡来人の数は弥生時代の渡来人よりずっと多数と推測される。それ故に、O型(O2とO1b2)が現在の日本人のY染色体組成の比率でほぼ半数を占めるに至ったと考察する。


アイヌ人
縄文時代草創期1.3万年前、古バイカル人(Y染色体型D1a2a)がクサビ形細石刃石器を携え、バイカル湖畔より、樺太経由で南下、北海道・東日本に侵入し、東日本縄文人(原アイヌ人)になる。古華北人は数万年前から断続的に列島に侵入していたが、1.3万年前、西日本に半円錐形細石刃石器を持ち込み、西日本縄文人となる。
 縄文文化の主たる担い手は、東日本縄文人であった。気候の冷涼化が始まる縄文後期・晩期に東日本縄文人が南下し、西日本縄文人と混ざる。さらに、古墳時代、飛鳥・奈良時代の後の平安・鎌倉時代に、北方の諸民族が混雑したオホーツク人が北海道に侵入、日本人(東日本縄文人(原アイヌ人))と混ざりアイヌ民族とよばれるようになる。ちなみに、この時代に東日本縄文人(原アイヌ人)にはなかったミトコンドリアのハプログループYがオホーツク人によってもたらされた。従って、現在のアイヌ人が北海道の原住民だとはいえない。

琉球人
 3~4万年前に、古華南人(Y染色体型C1a1?)が南シナ海の海岸線を北上し、台湾から沖縄に至ったと思われる。しかし、この沖縄の古華南人は旧石器時代後期には衰退したと思われ、新石器時代の始まる7,000年前頃まで沖縄には新人の活動の痕跡が殆ど無くなる。しかしながら、縄文時代早期と前期の境に起こった鬼界カルデラ噴火(7,000年前)の避難民(西日本縄文人、Y染色体型D1a2a)が、沖縄に渡って琉球人の先祖となった。かくて、沖縄はちょうど7,000年前頃に新石器時代の始期である貝塚時代に入った。さらに南九州の倭人(D1a2a)が弥生時代以降に沖縄に移住することにより、現在の琉球人が成立した。

日本人のY染色体ハプログループと核ゲノム解析
 日本人(アイヌ人と琉球人を含む)成立に至る民族移動をY染色体ハプログループの移動と捉え上述した。日本人形成に至る民族移動の結果、日本人のY染色体ハプロタイプは、(C系列(C1a1+C2):D系列、Dla2a:O系列(O1b2:O2))=8.5:40.8:(27.0:22.1)(比率%))となった。また、D系列ハプログループDla2a型の分布は、(アイヌ:関東:西日本:沖縄=87.5:48.2:26.8:55.6(%))となる。O 系列(O1b2とO2)の比率は、日本人は49%であるが、西日本では61%に達する。また、朝鮮半島からのO系列(O1b2とO2)の移動ルートと思われる、北九州-瀬戸内海沿岸-近畿地方-東海地方から関東地方の太平洋岸において、O系列の頻度が顕著に高い。
 新石器時代(縄文時代)の南朝鮮の原住民は、西日本縄文人であった。彼らのY染色体ハプロタイプはD型(D1a2a)であったが、江南人(O1b2)、華北人(燕や漢など、O2)や朝鮮人(高句麗系)(C2)の南下・侵攻により、南朝鮮の西日本縄文人のY染色体ハプロタイプD1a2a型が徐々にO2やC2型に移行したと思われる。さらに、紀元前後および任那滅亡時にはかなりの倭人(西日本縄文人、D1a2a)が倭国に帰来したと思われる。この民族移動のため、現在の韓国(南朝鮮)人のY染色体ハプロタイプD1a2a型の比率は、数%とかなり低いが、殆どD1a2a型が見られない中国人などの他の東アジア人に比較すると有意に高い。

 核ゲノム解析は全ての染色体を解析の対象とするため、極めて多数の遺伝子配列情報を比較解析することができる。東アジアにおける人類集団の遺伝的関係(核DNA解析でたどる日本人の源流、斎藤成也)で上側にずれているウィグル人、ヤクート人と同様なアイヌ人の上側へのずれは、アイヌ人への北方系民族の遺伝的形質の流入を推察させる。一方、下方に直線状に位置しているのが、アイヌ人、オキナワ人、ヤマト人と韓国人であり、アイヌ人がもっとも上方で、オキナワ人、ヤマト人、韓国人が続く(「倭の歴史 第1部第1章」(PDFをダウンロード)参照)。このずれは正しく縄文人の影響、すなわちアイヌ人がもっとも濃密に縄文人のDNAを受け継いでおり、それにオキナワ人、ヤマト人がつづき韓国人も弱いながら縄文人のDNAを含んでいると推察される。さらに、篠田らにより解析された、福岡や長崎の弥生人を含む人類集団の遺伝的関係を示すが、注目すべきなのは、韓国人は、縄文人と大陸人の混血と思えることである。斎藤氏と篠田氏の2研究グループが公表した東アジアの人類集団の遺伝的関係は、「韓国人は南朝鮮の倭人(西日本縄文人(原住民))と大陸人との混血である」という本稿の推察を裏付けるものである。また、「韓国人のY染色体ハプロタイプD1a2a型の比率は数%とかなり低いが、中国人などの他の東アジア人に比較すると有意に高い。」との結果とも合致する。
(参照 「日本人の成り立ち」YouTubeアドレス、 https://youtu.be/2Ae8c5XKfLE

            古の日本(倭)の歴史 第2部

                 概略


弥生時代(早期・前期・中期)
 縄文時代を通じて、照葉樹林帯の西日本と南朝鮮(南韓)には同じ照葉樹林帯の江南からの陸稲等の穀類(水稲、きび、あわは、弥生時代早期(縄文時代晩期)以降に栽培)、豆類やイモ類の栽培が伝わった。西日本での陸稲は熱帯ジャポニカ(赤味を帯びた籾、赤飯)であった。江南からソバ、豆などの栽培技術や神道の基層となる精神文化の長期にわたる持続的な流入があった。弥生時代には、南朝鮮の倭人(西日本縄文人)の帰来があった。また、江南人、華北人や朝鮮人(高句麗系)の渡来があったが、縄文時代に確立した日本文化の基層、古日本語やY染色体型に大きく影響するほどの多人数の渡来はなかった。

1. 弥生時代早期(先I期)(BC1000年~BC800年)
 縄文時代前期には岡山ブロックで陸稲熱帯ジャポニカの直播による焼畑を代表とする粗放な稲作が始まった。縄文中期にはこの粗放な稲作が有明海ブロックにもみられた。弥生時代は温帯ジャポニカの水田稲作の開始をもって始期とする。従って、紀元前1000年頃の菜畑遺跡(唐津市)や曲り田遺跡(糸島市)からの水田跡の発掘をもって弥生時代早期の始まりとする。この遺跡からは縄文時代晩期の突帯文土器も出土しているように、弥生時代早期と縄文晩期が重複している。弥生早期の始期は縄文晩期の始期より300年遅いが終期は同じである。この段階の水田稲作は南朝鮮から持ち込まれたものと見られるが、当時の南朝鮮は漢民族などの北方民族(華北人)の本格的な南下の前で、倭人(西日本縄文人)が多数を占めていた。その南朝鮮に山東半島を経由し水田稲作技術をもった江南よりの避難民が入り、南朝鮮で水田稲作が始まった。その技術が主として南朝鮮の倭人により北九州に持ち込まれたと思われる。ちなみに曲り田遺跡の近く新町遺跡の支石墓(朝鮮半島南西部に多く見られる墓形式)には縄文人が埋葬されていた。この突帯文土器段階の水田稲作は、松菊里型竪穴住居に居住して営まれていた。この住居を囲む環壕は、内蒙古由来と思われ、華北人の朝鮮半島南下によりもたらされた。この突帯文土器を伴う水田稲作は西日本に広がった。
 中国では弥生早期の始めに殷が滅び周が興ったが、早期の終わりに犬戒の侵入により周が滅び春秋時代が始まる。

2.弥生時代前期(I期)(BC800年~BC400年)
 春秋時代に入ると西戒(犬戒を含む)の中原への侵入が著しくなり、漢民族もまた東南に移り始める。これら華北の民(燕など)は朝鮮半島西岸をも南下した。漢民族は江南の東夷を圧迫するようになる。江南の流民は山東半島から南朝鮮に移ったが、流民の一部は西北九州や日本海西部沿岸に直接辿り着くようになる。土井が浜人は淮河辺りから渡来か。この流民が江南の水田稲作技術を直接倭にもたらしたと思われる。こうして、菜畑・曲り田段階に続く、板付遺跡に代表される新たな水田稲作段階に入る。そこで新来の温帯ジャポニカと縄文以来の熱帯ジャポニカとが混雑し、耐寒性の温帯ジャポニカ(早生種)が産れた。この耐寒性の稲が遠賀川式土器を伴い西日本一帯に急速に拡大し、さらに日本海沿いに青森にまで達した。また、この耐寒種は海人により逆に南朝鮮に持ち込まれたと思われる。この時期、江南から伝わったのは、土笛、環濠集落、石包丁(一部)、高床倉庫や神道体系などである。南朝鮮には見られない甕棺もまた長江中・下流域から直接北九州に伝わったと思われる。甕棺は弥生中期に専ら北九州で盛んに使用された。甕棺から銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が出土することが多い。農耕社会の成熟に伴い弥生の争いが始まる。近畿地方では木棺埋葬地の周囲を区画し、土盛りした墳丘を築く墓(方形周溝墓)が登場した。
 中国は春秋時代から戦国時代に入る。鉄製農具も使用されるようになる。この時期、燕の民が朝鮮半島さらに列島に鉄器を持ち込んだと思われる。春秋時代末に滅亡した呉の遺民や流民は九州や瀬戸内に渡来、一部は青銅器や鉄器を伴っていたと思われる。尚、BC473年の呉の滅亡時、呉太伯子孫の呉王夫差(呉の最後の王)の子「忌」は、東シナ海に出て、菊池川河口付近(現熊本県玉名市)に着き、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したと云う(『松野連系図』参照)。北九州の奴国の嫡流は呉太白の血流を引いていると思われ、また、奴国の墓制は甕棺墓であった。

3.弥生時代中期(Ⅱ-Ⅳ期)(BC400年~AD50年)
 弥生中期初頭には水田稲作が日本全域に広がった。この余剰農産物の生産は弥生社会に身分・階級制をもたらし、土地や水を求める戦いが始まった。この戦いは弥生前期から始まっていたが、中期に入ると急に増加し始める。その証拠は石鏃や銅鏃や鉄鏃は、縄文時代の狩りに使用された石鏃より大型化して、人の殺傷に適したものになったことである。このように弥生時代中期には、激しい争いが始まり、「国」という小さな政治的まとまりが生まれた。続いて「国」と「国」の間にさらに激しい争いが始まり、さらに大きなまとまりであるブロックが生まれた。
 弥生中期に形成された種々の祭器の分布域は各ブロックの形成・配置に重要な示唆をあたる。北部九州では、銅矛と銅戈、瀬戸内海東部沿岸では平型銅剣、畿内と東海では銅鐸、出雲地方ではこの地方を特有の中細形銅剣や銅鐸が祭器として使用された。尚、弥生時代中期の戦いはブロック内部の争いであり、ブロックを超えた広域戦争は考えにくいことが次のことから類推される。すなわち、戦闘用石鏃は、大きさ、厚さ、形、成形、材質などが、それぞれのブロックごとに特色をもっている。石鏃の材料のサヌカイトでも産出地によって石質の違いがあるので、石鏃を拾ったとき、どのブロックの石鏃かを識別できる。またブロック別につくられた石鏃は入り混じっては出土しない。
 春秋・戦国の動乱による流民が倭に青銅器・鉄器などをもたらした。また、燕と倭との交易路は確立していて鉄器などがもたらされたと言われる。また、半島の南東部(辰韓と弁韓)、北九州沿岸および山陰(出雲と丹後)は、漢により設置された楽浪郡の製鉄を中心に広域経済圏を形成し交易が行われていた。さらに、紀元前1世紀になると南朝鮮の倭人の一部が、華北人や朝鮮人(高句麗系)に圧迫され列島に帰来した。彼らも中国や朝鮮の文物をもたらしたと思われる。とはいえ、当時の南朝鮮はなお倭人が多数を占め、南朝鮮は倭の勢力圏といえるような状況を作っていたと考える。


・中期前葉(Ⅱ期)(BC400年~BC250年)
 越が滅亡し、銅鐸の原形と思われる銅鼓などの青銅器や鉄器が持ち込まれる。越の流民は呉からの流民を避け日本海沿岸の中央部の越に渡来か。さらに首長集団が九州北部に渡来、青銅器の本格的な流入と鉄器使用が始まる。一方、大国主は、出雲の玉造、銅精錬、砂鉄からの原初的な野ダタラ製鉄(日本海経由で伝わったか)を背景にして、日本海沿岸に銅、鉄、玉の文化圏を形成し、さらに渇鉄鋼からの製鉄に長ける多一族と協力し、西日本各地に進出し青銅器(聞く銅鐸)、鉄器と玉の出雲を中心とするネットワークを構築し始めた。このネットワークの中核の国を出雲古国と称する。

・中期中葉(Ⅲ期)(BC250年~BC100年)
 呉の遺民は呉太伯子孫と称し、筑前に奴国を建てたと考える。奴国では埋葬に甕棺を用い、また中広形あるいは中細形の矛・戈を祭器に使用したと思われる。燕が朝鮮半島に進出し南朝鮮に真番郡を置く。しかし、斉に続き燕も秦により滅ぼされ、秦が中国を統一した。列島への青銅器・鉄器の流入がさらに盛んになる。北九州では甕棺が最盛期に入る。徐福が不老不死の薬を求めて出航、列島に到達か。日本各地(特に武蔵、氷川神社周辺)に徐福伝説あり、各地の大国主と集合したと考える。秦が滅び漢が建国される。漢により衛氏朝鮮が滅ぼされ、楽浪郡が設置される。倭国には大型の鉄製錬所はなく、弁韓、辰韓、筑紫、出雲や丹後の倭人は鉄鉱石を楽浪郡に供給していた。楽浪郡からの舶載の鋳造鉄器は通貨の代用品であり、緞造鉄器の原料となる半製品である。ちなみに、中期前葉の鋳造鉄斧の出土地は、北九州が圧倒的に多いが、中期後葉になると中国地方や近畿北部での出土が多くなる。
 
・中期後葉(Ⅳ期)(BC100年~AD50年)
 大国主は日本各地に進出し、出雲を中心とする玉、青銅器「聞く銅鐸」と鉄器のネットワーク(大国主の国、出雲古国)を完成させた。出雲、摂津、大和で「聞く銅鐸」の製造が盛んで、摂津の東奈良遺跡から銅鐸鋳型出土。唐古・鍵遺跡でも銅鐸製造盛ん、また翡翠入りの渇鉄鉱が出土。
 倭は百余国に分かれ、楽浪郡に朝献する。漢の楽浪郡の設置や高句麗の建国などにより南朝鮮の倭人が圧迫され、一部は北九州や日本海沿岸に帰来。BC57年 新羅王室が始まった。『記紀』の皇統系譜と『三国史記』「新羅本記」の新羅王室系譜には不可思議な一致が見られる。(新羅王第1代  赫居世居西干は伊邪那岐(イザナギ)か。)イザナギ・伊邪那美(イザナミ)が伽耶の伊西国より丹後を経て近江に進出。漢が崩壊し新が起こる。さらに新が滅び、後漢が興る。第2代南解次次郎と思われる素盞嗚(スサノオ、須佐乃袁)は伊西国よりまず大国主の勢力の及ぶ筑紫に侵攻して、伊都国を建てる。さらに肥前に進出し神崎の櫛名田姫を妻とし、伊都国に戻る。次いで、出雲に侵攻して、大国主(八岐大蛇)を倒す。スサノオの出雲侵攻により、出雲古国が崩壊し出雲の青銅器祭祀(銅剣、聞く銅鐸)が大量に埋納される(加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡)。(これ以降、出雲では銅鐸などの青銅器祭器を使わなくなる。) スサノオとアメノホヒは、出雲王朝を建てる。大国主はスサノオに敗れ、その子孫が丹後・若狭さらに近江に向かう。かくて大国主の銅鐸を主とした青銅器と鉄器のネットワークの拠点が出雲より近江に遷る(浦安の国へか)。


-弥生時代中期の遺跡群-
<環濠集落・甕棺・楽浪系土器・中国の銭貨>
・吉野ヶ里遺跡(環濠集落、厳重な防護施設、墳丘墓や甕棺)
・原の辻遺跡(中国鏡、戦国式銅剣、貸泉(新の銭貨)、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、楽浪系土器、板状鉄など出土)
・三雲南小路遺跡(楽浪系土器、石製の硯すずり等出土)
<大型環濠集落・方形周溝墓・戦いの跡>
・下之郷遺跡(大規模多重環濠集落、戦の跡、方形周溝墓)
・朝日遺跡(環濠集落遺跡、強固な防御施設、方形周溝墓)
・池上・曽根遺跡(環濠大集落遺跡、巨大丸太くりぬき井戸、方形周溝墓、鉄製品の工房、高床式大型建物、ヒスイ製勾玉、朱塗りの高坏、石包丁等出土)
 方形周溝墳が近畿より各地に広がり中期後葉には北九州に達する。
<銅鐸・銅製品>
・東奈良遺跡(大規模環濠集落の遺跡、銅鐸の鋳型(聞く銅鐸)出土、銅鐸・銅製品工場)
・唐古・鍵遺跡(環濠集落遺跡、青銅器鋳造炉など工房の跡地、ヒスイや土器などの集散地、銅鐸の主要な製造地、多層式の楼閣)
<鉄製品・ガラス>
・扇谷遺跡(高地性大環濠、鉄斧などの鉄製品やガラス玉等出土、対岸の途中ヶ丘遺跡とは相関関係)
・奈具岡遺跡(水晶や緑色凝灰岩の玉作工房跡、鉄錐、大量の鉄片等出土)

          古の日本(倭)の歴史 第3部  

               概略


1. 弥生時代後期(Ⅴ期)(50年~200年)
a. 邪馬台(ヤマト)国成立前史

 『古事記』と『日本書紀』の内容としては、創作された物語である神話部分(神代)と史実に基づいて記されたという天皇の時代(人代)とに分けることができる。『日本書紀』には、「イザナギ・イザナミ時代に3国(浦安(うらやす)の国、細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)、磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに))があり、大国主(大己貴)は「玉牆の内つ国」(美称、大己貴の国(近畿政権))を建て、饒速日命(ニギハヤヒ)は「虛空見つ日本(倭)国」(邪馬台国(ヤマト国にあたる!)を建てた」とある。また、『記紀』の皇統譜と高麗が編纂した『三国史記』「新羅本記」の新羅王家系図との間には、不思議な一致がみられる。 『日本書記』の紀年を、宝賀・貝田推論の崇神即位AD315年、神武~崇神10代(一代、4半世紀、海部氏勘注系図と比較し10代)として考証したところ、神武天皇からの人代の始まる時期は1世紀半ばとなった。『三国史記』「新羅本記」の新羅王家系図から類推される天孫降臨の時代は1世紀半ばと推察され、両者とも弥生時代後期の始めと一致する。文献的には後期は、『後漢書』「東夷伝」によれば、「57年、倭の奴国王が後漢の光武帝に使いを送り金印を賜る」との事積から始まる。また、「107年、倭国王師升が朝貢し、生口160人を献上した」とある。さらに、「桓帝・霊帝の治世の間(146 - 189年)、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。」とある。『魏志倭人伝』には、「女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。」とある。 
 大国主は、弥生時代中期後半には出雲古国を中心し西日本全域にわたる、玉、銅と鉄の青銅器を祭器とする国々のネットワークを構築していた。紀元前後に伽耶出自の素戔嗚尊(スサノオ、須佐乃袁)が筑紫さらに出雲に侵攻し、出雲古国を滅ぼした(八岐大蛇退治に当たる?)。この時、銅鐸「聞く銅鐸」などの祭器の大量埋納があった(加茂岩倉・荒神谷遺跡)。スサノオに敗れた大国主はこのネットワークの拠点を出雲より近江に遷す。(アメノホヒとスサノオは出雲王朝を建てるが、この王朝の支配権は大国主系の出雲人に移り、その後4世紀半ばまで連綿と繁栄した。)スサノオは筑紫に戻り伊都国を拠点にして、北九州と中国地方西部を支配したと思われる。帥升(スイショウ)はスサノオの後継者か。  
 紀元前1世紀の近江には大国主のネットワークを構成する支国として浦安の国があった。紀元1世紀末頃には、近江を核とし近畿・東海一円を束ねる大己貴の国(玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに))が建てられた。玉牆の内つ国は、『魏志倭人伝』に「もともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった」とある「男子を王とする国」で、その国都は近江の伊勢遺跡と考えられ、巨大な「見る銅鐸」を祭器にしたと思われる。玉牆の内つ国は2世紀末まで続くが倭国大乱での大国主の敗退により瓦解した。この瓦解により多数の「見る銅鐸」が三上山麓の大岩山中腹に埋納された。
 前漢の楽浪郡の設置に伴い、紀元前2世紀始めの頃には、伽耶(任那の前身) 、筑紫、出雲と但馬・丹波を覆う、広大な経済ネットワークが成立していた。『三国史記』「新羅本紀」や『三国遺事』によれば、倭人の瓠公(ここう)が新羅の3王統(朴氏、昔氏と金氏)の全ての始祖伝説に関わったとされる。新羅の始祖王は、朴氏の赫居世居西干(ヒョッコセコソガン、BC57-AD4)である。第2代南海次次雄(スサング、AD4-24年)の倭人の娘婿が第4代脱解王である。脱解王の二代前が南海次次雄(スサング)で、天孫(瓊瓊杵と火明)の二代前がスサノオである。南海次次雄がスサノオに当たると考えると、赫居世居西干が伊邪那岐(イザナギ)に当たる。朴氏の起源地は伽耶の伊西国とされる。伊西は古来イソと発音され、伊都イトとも訛る。従って、紀元前後にスサノオが筑紫に侵攻することにより、伊西国に因んで伊都国が建てられたか。スサノオの孫(天孫)、すなわち、天之忍穂耳命の子が、邇邇藝(ニニギ)と火明(ホアカリ、天火明、彦火明)に当たる。二人は倭人の兄弟で、ニニギが金官国初代首露王(42-199年)に当たり、ホアカリは倭の多婆那国(丹後を含む丹波?)で生まれた新羅王第4代脱解尼師今(脱解王、57-80年)に当たる。さらに、第8代阿達羅尼師今(154-184年)の御代、王子の延烏郎(天日槍(アメノヒボコ)か)が来倭、その時期(157年)はちょうど倭国大乱(146-189年)の真最中である。尚、神功皇后はアメノヒボコの6世孫で、アメノヒボコが倭国大乱の頃来倭したと考えると系図上妥当である。また、後漢「中平」(184-190年)と紀年銘の鉄剣が和珥(和邇)氏にわたる。卑弥呼は大国主の血筋を引く和邇氏の巫女で倭国大乱を鎮めた。尚、倭国大乱の前に、スサノオ(あるいはその子孫)が支配する伊都国が奴国を圧倒したと思われ、奴国の嫡流の和邇氏は丹後(あるいは若狭)から近江に遷ったと思われる。
 『海部氏勘注系図』によると、ホアカリの3世孫の倭宿禰が大和進出を果たしたとある。天皇系図と勘注系図を比較すると、天皇系図の第4代懿徳天皇から第9代開化天皇までの系図とホアカリの3世孫倭宿禰から10世孫乎縫命まで(2代挿入)の系図がお互いに対応付けられる。従って、ホアカリは世代的に天皇系図の第1代神武天皇に当たる。皇統の系譜で日向三代が作為的に挿入されたと思われるので、ニニギが神武に当たる。ニニギの兄のホアカリ(彦火明)は新羅王家第4代脱解王で、第8代阿達羅尼師今の皇子(アメノヒボコ、第9代)は第6代孝安天皇の御代に来倭したことになる。孝安天皇の同母兄に和邇氏祖の天足彦国押人命がいる。


b. 倭面土(ヤマト)国の東遷と邪馬台(ヤマト)国(虚空見つ倭国(そらみつやまとのくに))の成立
 紀元前後にスサノオが筑紫に侵攻して伊都国を建てた。スサノオはユダヤ系倭人と思われ、伊都国を倭面土(ヤマト、ヘブライ語か)国とも呼称した。このヤマト国はスサノオの後裔の饒速日(ニギハヤヒ)により石見から三次経由(スサノオルート)で吉備に遷った。さらに、2世紀半ばのニギハヤヒの東征(ヤマト国の東遷)により、近畿・中国・四
国と中部地方西部を巻き込む倭国大乱が起った。この争いは「南朝鮮との鉄・銅・玉の交易により力を蓄えた、玉牆の内つ国を構成する近畿と中部地方西部の国々」と「吉備を中心とする瀬戸内海沿岸の国々」との間の大規模な内乱である。前者は大国主が率い少彦名(スクナビコナ)が加勢し、後者はニギハヤヒが瀬戸内海勢力をまとめ、天日槍(アメノヒボコ)と三島神が加勢した。アメノヒボコは、新羅より来倭して伯耆・因幡を侵し、但馬に達した。その後、当時吉備勢力の支配下にあったと思われる播磨を南下し、新たな日本海から瀬戸内に至る「鉄の道」を構築し、淡路島の五斗長垣内遺跡を中心に、鉄製の武器をニギハヤヒに供給した。また、新羅王家からのアメノヒボコの将来物(珠、比礼や鏡など)をニギハヤヒに預けた。
 ニギハヤヒとアメノヒボコは瀬戸内海を東征し、摂津から大和川添いを遡り、桜井を拠点に大和と葛城を平定したと思われる。この大和侵攻では和邇氏も協働したと考える。その後、北上(木津川・宇治川を経由か)し、近江に侵攻した。ニギハヤヒと大国主は、近江湖南の伊勢遺跡にいたと思われる和邇氏の巫女で大国主の血筋の卑弥呼を共立し、纏向遺跡に遷した。ここに大和を核とし中国・四国・近畿に広がる倭面土(ヤマト)国ならぬ邪馬台(ヤマト)国が成立した。『日本書記』で、ニギハヤヒが称した「虚空見つ倭国」がこの邪馬台国に当たる。倭国大乱での敗退の結果、大国主は近江湖南より伊吹山を仰ぎ見る湖東・湖北に後退したが、近江東北部・美濃・尾張を中心とする玉牆の内つ国(大己貴の国)の後継国、狗奴国を建てた。スクナビコナはこの大乱で敗死したと思われる。大和を掌握したニギハヤヒは第7代孝霊天皇と同一人格と
われ、卑弥呼は孝霊天皇の養女となり、倭迹迹日百襲姫命と呼ばれるようになったと考える。また、ニギハヤヒは物部氏の祖であり、古来からの武器・武具庫である石上神宮を造営した。アメノヒボコは大乱の後、近江を経由して最終的に但馬に落ち着いた。

2. 邪馬台国 (2世紀末~3世紀末)
 邪馬台国の実権はニギハヤヒ(孝霊天皇か)が握り、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が巫女として大型の銅鏡を用いた祭祀を執り行った。孝元天皇(孝霊天皇皇子で卑弥呼の異母弟)が実際の政務を担当した。『魏志倭人伝』に帯方郡から邪馬台国への旅程が記されている。筑紫の不弥国までのルートは確定している。「倭人伝」の編者・陳寿は、邪馬台(やまと)国が九州南方の台湾沖に位置すると誤解していたため、九州から南方に向かうを東方に向かうと正すと水行20日で投馬国(出雲国(出雲王朝、出雲東部が中心))に着く。次の水行10日で若狭(小浜湾)に着く。その後、小浜市神宮寺の「お水送り」のルートを取って琵琶湖経由で宇治川・木津川を経て、大和・纏向に向かう。このルートが水上交通が一般的であった当時としては一番蓋然性がある。本ルートは和邇氏が大和に進出したルートと思われる。
 邪馬台国の都の纏向(遺跡)は、後世の藤原京に匹敵する広がりを見せる。この遺跡は、玉牆の内つ国(大己貴の国)の都で交通の要衝であった伊勢遺跡に比肩しうる要衝の地に位置する。従って、纏向は邪馬台国時代の政治の中核であるのみならず、当時の経済拠点の一つでもあった。(大和は辰砂(水銀朱)の産地) その証しは、各地から運び込まれた外来系土器の量の多さに示される。(外来系土器の出土数は全体の15~30%に達する。) また、大和では産しない染料として使われる紅花が出土する。尚、ニギハヤヒが率いる吉備勢力が邪馬台国成立に重要な役割を果たしたことは次のことから推察出来る。吉備型甕が発展した庄内式土器(纏向の卑弥呼の時代の標識土器、九州北部まで拡散)が纏向遺跡から出土すること、吉備の楯築や宮山の弥生墳丘墓から出土する特殊基台が纏向遺跡の古墳から出土すること、さらにこれらの弥生墳丘墓から出土する弧帯文石(毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石)の文様が纏向遺跡から出土する弧文円板のものに酷似していることなどが上げられる。また、「孝霊伝承」と云われる孝霊天皇とその皇子(吉備津彦)を主人公とした一群の伝承があり、吉備国から南北に延ばした線上に沿って分布している。尚、倭迹迹日百襲姫命は吉備津彦の同母姉とされている。さらに、天羽々斬剣(布都御魂剣、十握剣)(スサノオが八岐大蛇を退治した剣)は吉備の石上布都魂神社にあったが、ニギハヤヒの東征で携行され、後に物部氏の総氏神の石上神宮に遷され、布都斯魂剣と呼ばれ祀られている。
 邪馬台国は、狭義の邪馬台国と広義の邪馬台国とに分けられる。狭義の邪馬台国はニギハヤヒの建てた虚空見つ倭国で、瀬戸内海沿岸諸国、因幡、但馬、丹後、播磨、摂津、山城、若狭、近江(湖南・湖西)、大和および紀伊を含む。大国主は、狗奴国(近江(湖東・湖北)から美濃さらに東山道、東海道や北陸道に広がり、大和、葛城や紀伊にも残存勢力)を建てる。尚、広義の邪馬台国は、狭義の邪馬台国と任那・伊都国連合とから成る。任那・伊都国連合とは任那(伽耶諸国)と伊都国を中心とする九州北部諸国とを併せて成立していた国家連合である。(任那は対馬に起こり、南朝鮮の倭人居住域を領した。) 狭義の邪馬台国が成立後、ニギハヤヒ勢力は中・四国全域を支配下におき、さらに任那・伊都国連合を勢力下においた。伊都国は穴門を支配し、瀬戸内海への出入りを監視していた。邪馬台国は、伊都国に一大率を常駐させ、北部九州と南朝鮮の行政・外交的を支配していた。
 大国主の玉牆の内つ国では、巨大な「見る銅鐸」を祭器にしていた。近江の伊勢遺跡の近くの三上山の山麓の大岩山古墳群(野洲市)から24個の大型銅鐸が出土した。これらは2世紀末の邪馬台国建国時、すなわち倭国大乱の終焉時に、近江湖南にニギハヤヒ勢力が侵入し、伊勢遺跡が解体されたときに埋納されたと思われる。邪馬台国は銅鐸に代わって、銅鏡を祭器にした。2世紀前半までの漢鏡(内行花文鏡など)の出土数が、九州に圧倒的に多いのに対し、2世紀後半からは九州で減少し、九州より東での出土数と分布域が急速に増大する。また、卑弥呼は魏と交流する前の3世紀初め、公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を支配下の首長に分配したが、その分布は畿内に集中していた。北部九州の玄界灘沿岸や、狗奴国に属すると想定される濃尾平野にはほとんど分布していない。卑弥呼、魏に使い(難升米・都市牛利ら)をおくった。魏は卑弥呼に「親魏倭王」の金印綬を授けた。銅鏡(三角縁神獣鏡か)100枚を賜り、威信材として邪馬台国を構成する国々に配布した。その後、この鏡を倭国内で生産するようになり、邪馬台国を継ぐ崇神王朝(ヤマト王権)が安定するにつれ、三角縁神獣鏡の分布範囲は列島全域に飛躍的に拡大した。
 邪馬台国の中核の大和では箸墓古墳に至る前方後円墳の発展がみられた。前方後円墳には、三角縁神獣鏡が副葬されることが多い。一方、狗奴国では近江北部を発祥の地と思われる前方後方墳が広がった。また、S字甕が近江東北部をふくむ狗奴国全域に広がっている。最近(2016年)、滋賀県の彦根市で纏向遺跡に次ぐ規模の邪馬台国時代の稲部遺跡が発掘された。稲部遺跡が狗奴国の都である可能性がある。

3.邪馬台国の終焉
 『魏志倭人伝』に「卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された」とある。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が死去したのは249年の若干前と『梁書』は伝える。宮内庁が箸墓に倭迹迹日百襲姫が葬られたとしているように、卑弥呼が箸墓古墳に埋葬されたのであろう。『魏志倭人伝』には「男王(開化天王か)が立つが国中は不服で、交々相誅殺し、千余人が亡くなった。卑弥呼の宗女の臺(台)与を女王とすると国が収まる」とある。台与は、大国主系の狗奴国の近江の豊郷の出身と思われ、日子(彦)坐王(開化天皇皇子)の妃となった息長水依姫であろう。台与は掖邪狗らを魏に送る。また、台与は西晋(晋)に使いを送る(266年)。 崇神東征(神武東征譚の主要部分)は、開化天皇の御代にあったと思われる。すなわち、吉野から宇陀に侵攻し大和へ侵入するところが要となる。崇神東征は、大彦が物部氏と結託して崇神天皇が率いる任那・伊都国勢力を大和に引き入れるクーデターであったと思われる。崇神軍は南朝鮮(半島南部)と北九州を束ねる任那・伊都国連合からの東征軍であり、中臣氏、大伴氏や久米氏、さらに隼人を同伴していた。崇神軍は大国主の子孫であるナガスネヒコ軍と激突する。この闘いで、物部氏を率いるウマシマジ(ニギハヤヒ(孝霊天皇)の子)がナガスネヒコを裏切り謀殺する。このため、ナガスネヒコ軍は一気に崩れ、崇神は大和侵入に成功する。崇神軍は 和邇氏を取り込み、大和の大国主勢力を一掃し、さらに葛城に向かい、賀茂氏を山城に追い落し、高倉下(ニギハヤヒの子の天香久山)を尾張に行かせた。また、出雲勢力を挟撃するため、ウマシマジを石見に派遣し物部神社を創建し、また天香久山を越後に行かせ弥彦神社を建てた。鎮魂祭は、皇居のほか、物部氏ゆかりの石上神宮、物部神社、弥彦神社で執り行われるが、この鎮魂祭は崇神東征で敗北した大国主を中心とする出雲勢力の鎮魂を図ったものであろう。この出雲の国譲り(葦原中国平定)で、最も功績のあった神は、中臣氏の祭神の建御雷で、それに続くのが物部氏の祭神の経津主神とされ、それぞれ鹿島神社と香取神社の軍神となっている。建御雷は、春日大社の祭神ともされ、飛鳥時代に権勢を振るった藤原氏(中臣氏の後継氏族)の出雲の国譲りでの活躍を顕示する目的で創作されたものであろう。
 この崇神東征により、邪馬台国は終焉を迎え、ヤマト王権の崇神王朝(三輪王朝)が始まる。しかし、崇神東征の前から瀬戸内海勢力の崇神天皇らと日本海勢力を束ねる日子坐王との間に政権抗争があり、垂仁朝に瀬戸内海勢力が政権をほぼ掌握したと思われる。狗奴国は、景行朝の折最後の砦の伊吹山で日本武尊を敗死させたが、成務朝に滅びたと推察する。狗奴国の滅亡はヤマト王権が倭国全域を平定したことを意味する。『日本書紀』によれば、成務天皇は「国群に造長(国造のこと)を立て」たという。つまり、成務天皇の御代に列島の地域行政組織に「国」と「県」が設置されたのであり、国土統治の観点での大きな治績である。

倭の歴史(最新版)第3章.jpg

  古の日本(倭)の歴史(前1世紀~4世紀)-天孫族(伽耶族)の系譜

 弥生時代中期の紀元前2世紀の倭国には、中国の春秋時代の末(BC473年)に滅亡した呉の遺民の子孫(呉太白の末裔)が筑前に建てたという海神族の雄国の「奴国」、戦国時代のBC344年に滅亡した越の遺民の血脈を引くという大国主により建国されたという「出雲古国」さらに出雲の流れを汲み農・産業の雄国の近江を中心とする「浦安の国」の3大国が存在した。このうちの「出雲古国」が、大国主(大穴持)の支配した、鉄、銅、玉のネットワークの中心の国である。紀元前108年、前漢により楽浪郡が設置された。楽浪郡の製鉄所は、当時の倭国にはない大規模製鉄の技術を持っていた。楽浪郡の鋳造鉄器は通貨代用品であり、緞造鉄器の原料となる半製品である。海神族の出雲の大国主は、楽浪郡の鋳造鉄器を得るための鉄、銅と玉の交易ネットワーク(出雲古国を中心に、伽耶、筑紫、出雲、丹後・近江を覆う)を発展させた。楽浪郡の鋳造鉄器を含む交易品は、洛東江の水運を利用して伽耶北部の大伽耶(高霊加羅、大邱南の伊西国を含む)に集積されたと考えられる。これら鋳造鉄器等の交易品は、洛東江を南下すると大加羅(金海加羅、金官国)に至り、筑紫に運搬される。一方、大伽耶に集積した交易品は、斯蘆国(後の金城、慶州)の外港から出雲や丹後に向かう。紀元前後の大伽耶の素戔嗚(スサノオ)の筑前進出により伊都国が建国され、さらに出雲侵攻により、出雲古国は壊滅、大国主は敗死した。このため、大国主のネットワークの中心が出雲から近江へと遷り(アジスキタカヒコネらの東遷)、近江を核とする浦安の国を継ぐ、玉牆の内つ国(大己貴の国)が建てられた。尚、出雲古国の滅んだ出雲には、スサノオと高天原から派遣されたアメノホヒにより出雲王朝が建てられた。その後、出雲王朝の支配権は天津族より大国主一族の出雲残留者の出雲人に移ったが、この王朝は崇神朝まで連綿と栄えた。
 上図
は天孫族の系譜を示している。天孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄は彦火明命(ホアカリ)である。『記紀』の神武-開化天皇(1-9代)の系図と『海部氏勘注系図』の彦火明-乎縫命 (1-11)の系図とを整合性をもたせて並列させることができる。『日本書紀』の天皇系図の紀年に宝賀・貝田推論を適用すると崇神即位は西暦315年となる。(瓊瓊杵から神武の系譜(日向三代)は作為的に挿入されたと考えると、瓊瓊杵と神武が同世代人あるいは同人格となる。) 神武から開化まで9代、また彦火明命から乎縫命まで11代となる。両方の代の数の平均を取ると10代で、一代を四半世紀(25年)とすると瓊瓊杵(神武)および彦火明の即位は西暦65年となる。この年代は、金官国初代首露王(即位42年)や第4代新羅王脱解王(即位57年)と同年代である。尚、『新撰姓氏録』は、新羅の祖(昔氏の祖、脱解王)は稲飯命(神武の兄)だとしている。かくて、稲飯(脱解)が彦火明に当たるとすると、その弟の神武は瓊瓊杵に当たる。すなわち、瓊瓊杵(神武)と首露王は同一人格で、彦火明(稲飯)と脱解王もまた同一人格となる。伽耶の伝説『釈利貞伝』によれば「正見母主には悩窒青裔と悩窒朱日の二人の息子があり、悩窒青裔は金官国の初代首露王になり、悩窒朱日は大伽耶の王(脱解王)となった」とのことである。正見母主は、高木神の娘の栲幡千千姫(万幡豊秋津師比売命)であるとすると、天孫(瓊瓊杵と彦火明)は伽耶の出自となりそれぞれ伊都国と丹後国に降臨したことになる。以上より、天孫降臨の年代は1世紀半ばと結論する。また、新羅王室の系譜は大伽耶(伊西国を含む)の王の系譜となり、新羅王初代赫居世居西干は伊弉諾(イザナギ)、第2代新羅王南解次次雄は素戔嗚尊(スサノオ、天神)、第4代脱解王(彦火明(天孫))は悩窒朱日と考えられる。(即ち、脱解王の二代前が南海次次雄(スサング)で、天孫(瓊瓊杵と彦火明)の二代前がスサノオである。)尚、このように、新羅王室の初期系譜は大伽耶(伊西国を含む)の系譜であり、後世新羅となる辰韓の斯蘆国の系譜に移行したものと考える。
 神武東征とは天津族による倭国平定譚であり、神武・ホアカリ・ニギハヤヒ・崇神東征を集合したものであると考える。 1世紀半ばの神武東征は多氏を伴った三島神の東征とみる。神武から始まる天皇系図の2、3代の綏靖と安寧は、浦安の国の支国の王であろう。彦火明は1世紀半ばに丹後国に降臨した。2世紀初め、3世孫の倭宿禰が東征(ホアカリの東征)し、近江の玉牆の内つ国(大己貴の国)の支国である葛城王朝を建てた(倭宿禰は4代懿徳に当たる)。2世紀後半、吉備や筑前で力を蓄えた素戔嗚の息子、饒速日(ニギハヤヒ)の子孫は、アメノヒボコ(天之日矛、天日槍、第8代新羅王阿達羅王の王子)を伴い東征し、倭国大乱を引き起こした。ニギハヤは大己貴の国を崩壊させ、大国主と共に卑弥呼を共立して大和に邪馬台(ヤマト)国を建てた。ニギハヤヒは孝霊天皇(邪馬台国始祖)と同一人格であり、卑弥呼は孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命であろう。倭国大乱により、大国主の建てた玉牆の内つ国(大己貴の国)は、ニギハヤヒの邪馬台国(西日本)と大己貴の国の後継国の狗奴国(東日本)に分裂した。玉牆の内つ国(大己貴の国)を継いだ狗奴国は成務朝に滅んだと思われる。

 神武から開化までが前ヤマト政権で、(神武―安寧が大国主の浦安の国の支国、懿徳―孝安が玉牆の内つ国の支国、孝霊-開化がニギハヤヒの邪馬台国)の系譜を辿る。3世紀末に、崇神は、久米人、隼人等を同伴して九州より東征し大和に入り(崇神東征)、ニギハヤヒの建てた邪馬台国を引き継いだ。崇神朝以降がヤマト王権となる(崇神王朝、三輪王朝)。崇神即位は西暦315年。尚、開化朝に北近畿を束ねる日子坐王の近江王朝が成立したが、崇神勢力との抗争に敗れ衰退した。尚、日子坐王の妻の息長水依姫が台与ではないかと推察している。
 一方、瓊瓊杵(ニニギ)は伊都国に降臨しウガヤフキアエズ朝(ウガヤ朝)を建てた。ニニギから神武に至る「日向三代」から始まるウガヤ朝の系譜は、伊都国王の系譜に当たり、3世紀末には崇神(ミマキイリビコイニエ)に至る。崇神は東征し大和に入り(崇神東征)、ニギハヤヒの建てた邪馬台国を引き継いだ。また、崇神朝に出雲王朝が滅ぼされた。さらに、4世紀末、仲哀天皇・神功皇后によりウガヤ朝を継いだ九州王国(?)が滅ぼされた。神功皇后は八幡神(応神)と住吉神と共に大和へ帰還した。この応神東征により、素戔嗚の直系の息長氏がヤマト王権を掌握する(応神王朝、河内王朝)。応神即位は西暦390年(宝賀・貝田推論)。
(FB藤田泰太郎タイムライン投稿21/4/30改訂)

参照: 近江の古代史(FB投稿20/6/6)、 吉備が東遷・拡大し邪馬台(ヤマト)国になった(FB投稿20/9/6)、倭国大乱とアメノヒボコの軌跡( FB投稿20/8/15 )

            古の日本(倭)の歴史 第4部 

                 概略


1.古墳時代前期(3世紀中旬~5世紀初頭、邪馬台国終期)+崇神王朝(三輪王朝、崇神天皇~仲哀天皇)
 古墳時代の始期は巨大な前方後円墳が造られ始めた時期とされる。従って、3世紀後半始めの最古級で巨大な前方後円墳である箸墓古墳の造営をもって古墳時代が始まったとする。箸墓古墳には邪馬台国の卑弥呼(孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命か)が葬られている。前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形であり、吉備様式の特殊器台が後円部に並んでいる。箸墓古墳に続く時期に造られた西殿塚古墳も箸墓の様式を踏襲しており、卑弥呼の後継者の台与の墳墓と考えられている。これら2基の邪馬台国終結期の前方後円墳に続くのが、崇神天皇に始まる崇神王朝の歴代天皇の巨大な前方後円墳である。これらの古墳は、奈良市にある宝来山古墳(垂仁天皇陵)を除いて、天理市・桜井市の大和・柳本古墳群にある。崇神朝の後にヤマト王権に権力交替があったと思われる。景行天皇陵は天理市の柳本に造営されるが、成務天皇陵や神功皇后陵並びに垂仁天皇妃(日葉酢媛)陵などは、奈良市の佐紀盾列古墳群にある。なかでも、日葉酢媛陵の墳形には丹後の古墳の影響が強く出ている。その後、所謂応神東征といわれる、応神天皇を掲げた神功皇后軍(神功皇后・武内宿禰・建振熊)の東征により仲哀天皇の皇子(香坂王・忍熊王)が誅殺される。この内乱により古墳時代前期が終わり、応神王朝(河内王朝)が始まる。
 3世紀半ば卑弥呼が亡くなり、邪馬台国は狗奴国の攻勢もあり混乱状態となり、男王(開化天皇か)を立てるが争乱状態となった。開化天皇の御子の日子坐王(『古事記』、『日本書紀』では彦坐王)は、妻の息長水依比売(台与か)を卑弥呼の後継にし、狗奴国との抗争を鎮めた。また、日子坐王は、丹波道主王命(台与との子)とその娘の日葉酢媛命(垂仁の皇后)、狭穂彦と狭穂姫(日子坐王の子、狭穂毘売は垂仁の妃)、和邇氏らの丹波・若狭・近江・美濃勢力(日本海系勢力、近江王朝)を纏め、開化天皇の異母兄弟の大彦の勢力(瀬戸内海系勢力、崇神王朝)と対抗したと思われる。その当時、丹後に巨大な前方後円墳が造られたが、これは日子坐王の権勢を反映したものと思う。垂仁朝に狭穂彦が反乱を起こしたが敗北し、妹の狭穂姫は兄に殉じた。この敗北の結果、日子坐王勢力は衰退していった。
 3世紀末の崇神東征により、邪馬台国の王権は伊都国・任那連合に奪取され、崇神王朝(ヤマト王権)が誕生する。宝賀・貝田推論によると、崇神即位は315年。しかし、日子坐王が束ねる日本海勢力(近江王朝)と近江北部・美濃を中核とし東日本に拡がる狗奴国の勢力(大国主勢力)が葛城など西日本諸国にも存在していた。葛城勢の武埴安彦王と妻の吾田媛が謀反を起こした。瀬田内海勢力の吉備津彦が吾田媛を破り、大彦命と彦国葺命は武埴安彦を破った。この争いの結果、崇神天皇と大彦は安定した政権基盤を築いた。崇神天皇は、北陸道、東海道、西道(山陽道)と丹波(山陰道)のそれぞれに大彦、武渟川別 (大彦の子)、吉備津彦および丹波道主王(日子坐王の子、)を派遣し諸国を平定した。また、出雲神宝を管理していた出雲振根の不在中に弟の飯入根が神宝を奉献する。出雲振根は怒って飯入根を殺す。ヤマト王権は吉備津彦と武渟河別を派遣して出雲振根を誅殺(出雲神宝事件)。崇神朝につづく垂仁朝の五大夫は、彦国葺命 (和邇氏)、武渟川別 (阿倍氏)、大鹿嶋 (中臣氏)、十千根 (物部氏) および武日 (大伴氏)であり垂仁天皇を支えた。
 崇神の御代に疫病が流行り政情が不穏になり、天皇は御殿で天照大神(卑弥呼をも表象)と倭大国魂神(大国主の荒魂)の二神を祀ったが、政情は回復しなかった。そこで、大田田根子を祭主として大物主神(大国主の和魂)を祀り、市磯長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病がはじめて収まり、国内は鎮まった。また、神託により垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を祀る伊勢神宮内宮を創建している。さらに、垂仁天皇と狭穂姫の間の誉津別皇子が物言わないのは、出雲大神の祟りと思われた。天皇は皇子を出雲に遣わし、大神を拝させると皇子は話せるようになった。大国主は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」としていたが、これに従って出雲大社が造られ、大国主の祟りが鎮まった。また、垂仁朝に皇祖神たる天照大御神を祀る伊勢神宮が造営された。
 景行朝に日本武尊は西征し、熊襲建を謀殺する。さらに東征し、駿河、相模と上総を制し、反転して尾張から伊吹山に向かい神の化身と戦うが深手を負い大和への帰途亡くなる。これは、伊吹山は狗奴国の神奈備で狗奴国の残存勢力のために敗死したと考える。狗奴国は成務朝に日本武尊の御子の稲依別により滅ぼされ、ここにヤマト王権による倭国平定が完遂した。
 ヤマト王権による倭国平定が終わる4世紀後半になると倭国軍の南朝鮮への展開が活発化する。中国は五胡十六国の大分裂時代で、この時期、高句麗や百済も華北や江南へ進出する。倭国軍が百済と高句麗に進出する中、369年、百済王世子奇生は倭王に友好のため七支刀を送る。384年には、新羅からの朝貢がなかったので、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣された。391年は、倭国は百済・新羅を臣民化し、409年高句麗に攻め込むが広開土大王(好太王)に大敗する。これらの倭国軍の南朝鮮への侵攻が、神功皇后の「三韓征伐」に当たると考える。応神天皇を掲げた神功皇后軍により仲哀天皇の皇子(香坂王・忍熊王)が謀殺される。この内乱により応神王朝が誕生する。


2.古墳時代中期(4世紀末から5世紀、応神天皇~武烈天皇) 
 応神天皇の東征により、応神王朝が樹立された(宝賀・貝田推論によると、応神即位は390年)。応神東征とは、河内の物部氏や中臣氏と結託した大山祇神やスサノオの流れを汲む息長氏出自の応神天皇の宇佐神宮からの東征である。成務朝の倭国の平定および応神東征により、倭国は隆盛期を迎え、倭国軍が強力な武力を背景に南朝鮮に進出するとともに、壮大な前方後円墳の建造を含む大土木事業が活発化する。また半島や中国との交流も日本海経路ではなく主として瀬戸内海経路をとるようになる。最大級の前方後円墳は、河内の古市・百舌鳥古墳群の誉田御廟山(応神陵)、大仙(仁徳陵)や上石津ミンザイ(履中陵)で、その当時地方の有力豪族(吉備、日向や毛野)も巨大な前方後円墳を築造した。 
 5世紀半ばに、允恭天皇(即位;441年)は、氏姓の乱れは国家の混乱を招く原因になりかねないと考え、氏・姓の氏姓制度を整えた。この允恭の施策によって、貴族・百姓の身分的序列化が成し遂げられた。5世紀末には、倭国の勢力下にある南朝鮮の栄山江流域に前方後円墳群が造られた。また、古墳の石室が竪穴式から横穴式に変遷する。古墳時代後期(6世紀)になると古墳の規模は縮小へと向かった。
 応神天皇の母の神功皇后の「三韓征伐」のように、応神王朝になる頃から倭国軍の朝鮮半島進出が盛んになった。それに伴って半島からの渡来人が目立ってきた。応神朝には、百済より和邇吉師(王仁)が渡来し、『論語』と『千字文』をもたらす。また、葛城襲津彦や倭軍の精鋭の助けにより新羅の妨害を排し、弓月君(秦氏の先祖)の民が百済より渡来した。この頃、海部(あまべ)、山部などの土木技術者も渡来した。これら渡来人の助けで大堤や巨大古墳を築くなどの大型の土木工事が行われた。仁徳朝(即位:414年)には、大阪湾沿岸部の河内平野一帯で、池・水道・堤などの大規模な治水工事が行われた。また、難波の堀江の開削を行って、現在の高麗橋付近に難波津が開かれ、当時の瀬戸内海物流の一大拠点となった。
 5世紀後半につくられた倭製の土師器、青銅器、巴形銅器あるいは滑石の祭器が、伽耶と称される南朝鮮の慶尚南道や全羅南道の墳墓や集落遺跡から発見されている。一方、倭においても、伽耶製の陶質土器や筒形銅器、さらに鉄艇と呼ぶ半島製の鉄製の短冊形の鉄素材の出土量が急増している。さらに、応神王朝では、従来の古墳に埋められた埴輪などの素焼きの土師器に加えて、ろくろを使い成形し高温で焼く須恵器が造られ始めた。
大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が前方後円墳分布域の北端と南端にまで運ばれている。また、牧畜が一般化し、平郡氏が王権の馬の管理に携わった。

倭の5王と雄略天皇(即位;465年)
 応神王朝の倭の五王とは、『宋書』倭国伝などに記された、中国南朝に遣使した倭王「讃、珍、済、興、武」(「梁書」では讃=賛、珍=彌)を指す。この5人が歴代天皇の誰にあたるかは、『古事記・日本書記』から推定すると、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇と考えられる。しかし、残る讃、珍については、讃=応神天皇または仁徳天皇あるいは履中天皇、珍=仁徳天皇または反正天皇など諸説がある。以下、倭の五王の外交年表。413年、讃 東晋・安帝に貢物を献ずる(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)。421年、讃 宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王 (『宋書』夷蛮伝)。425年、讃  司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる (『宋書』夷蛮伝)。430年宋に使いを遣わし、貢物を献ずる (『宋書』文帝紀)。438年、倭王讃 没し、弟珍 立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める (『宋書』夷蛮伝)。4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする (『宋書』文帝紀)。443年 済  宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる (『宋書』夷蛮伝)。451年、済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される (『宋書』倭国伝)。7月、安東大将軍に進号する(『宋書』文帝紀)。462年、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)。477年、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する (『宋書』夷蛮伝)。478年、武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする (『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)。479年、南斉の高帝の王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号 (『南斉書』倭国伝)。502年、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する (『梁書』武帝紀)。
 讃(履中天皇か)、珍(反正天皇か)や武(雄略天皇)は、自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、宋の皇帝に正式に任命を求めている。皇帝は、百済だけは倭国の支配下であると認めず、他の南朝鮮は倭国の領域であることを認めている。このことは、南朝鮮は縄文時代前期から倭人(西日本縄文人)が住み、倭の勢力下にあったが、百済だけは後年、漢や魏の強い影響下にあったことを、倭王のみならず南朝の皇帝もまた認識していたからだと考える。
​  5世紀後半の応神王朝の政変は雄略天皇(倭王武)の登場と関係すると思われる。雄略天皇は、平群氏、大伴氏や物部氏の力を背景にした軍事力で専制王権を確立した。天皇の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。葛城、吉備などの諸豪族を制圧したことが『記紀』から伺える。西都原古墳群(宮崎県)では、5世紀前半になって女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳のような盟主墳が出現するが、これら盟主墳は5世紀後半以降途絶える。河内の王家と密接な関係のあった淀川水系有力首長系譜(大阪三島の安威川、長岡や南山城の久世系譜)が、5世紀前半に盟主墳を築き全盛期を迎えるが5世紀後半にはこれらの系譜は断絶する。この政変により、新たな系譜が巨大な前方後円墳を築き始める。熊本県菊池川流域の江田船山古墳の系譜、埼玉県の稲荷山古墳の系譜、群馬県の保渡田古墳群の系譜などである。とりわけ、江田船山古墳と稲荷山古墳からは獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)の文字を刻んだ鉄剣が出土している。なかでも、稲荷山古墳からの鉄剣には、古墳の被葬者オワケの7代前はオオヒコノミコトと記されており、大彦命は崇神朝の四道将軍の一人である。雄略天皇の武威が関東・九州におよんでいたと推定される。その後の武烈天皇は、大伴金村に命じて恋敵の平群鮪を殺害し、その父真鳥の館に火を放って焼き殺してしまう。ここに平群氏は討滅される。
 対外的には、462年、倭軍が新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走した。475年、高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた。この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励した。479年、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。このように、雄略朝では、倭国は百済と協力し、新羅に当たりまた高句麗の圧迫に対抗した。

            古の日本(倭)の歴史 第5部

                 概略

 
1.古墳時代後期(6世紀、継体天皇~崇峻天皇)
 継体天皇は応神天皇の5世孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治していた。506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが協議して、越前にいた男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心中疑いを抱き、河内馬飼首荒籠に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめてから即位の決心をした。翌年、河内国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。継体は、即位19年後の526年、ようやく大倭(後の大和国)に都を定めることができた。(百済本記を基にして継体紀から年号が定まる。また、継体天皇は直接に以降の皇統に繋がることが確認されている。)
 継体天皇6年(512年)、大伴金村は、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの要求を入れて任那4県を割譲し、百済と結んで高句麗、新羅に対抗しようとしたが、かえって任那の離反、新羅の侵攻を招いた。527年、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した。継体天皇は大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、麁鹿火が将軍に任命された。528年、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。その後531年、継体天皇は皇子(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御した。『百済本記』では、天皇と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。継体陵とされる今城塚古墳からの出土と思われる阿蘇ピンク石(当時石棺に使用)が発見されている。
 大伴金村は、安閑、宣化、欽明天皇の時代にも大連として権勢を保ち、屯倉の設置などに励んだ。しかし、欽明天皇の代に入ると天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭し、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退した。
 
 雄略朝以来、倭は百済と同盟関係にあり、高句麗の南下と高句麗の影響を受けた新羅の侵攻に対抗してきた。512年、倭国は任那4県を百済に割譲した。また、513年、百済より五経博士が渡来、538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。古墳石室も竪穴式石室に代わって、朝鮮風の横穴式石室が主流となった。554年、聖名王が新羅で戦死する。そしてついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。かくして、古来(縄文時代前期)より維持してきた南朝鮮の倭国の領土をすべて失うことになる。このことは、任那・伊都国連合の出自と思われる崇神・応神天皇を掲げる皇統にとり由々しき事態であり、ヤマト王権は、任那滅亡以来、度々任那の回復を図るがことごとく失敗した。
 6世紀半ばに大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った(崇仏論争)。552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の祟りを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし(衣摺の戦い)、寺院の建立も盛んに行われるようになった。これ以後、邪馬台国以来権力を振るった、さしもの物部氏も権勢に陰りがみられるようになり、蘇我氏の全盛が始まる。戦い後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。この間、581年には、中国は文帝により長い分裂の時代を終えて再び統一され、国号を隋とし中央集権体制をひいた。崇峻天皇は傀儡で政治の実権は馬子が持ち、これに不満な天皇は馬子と対立した。592年、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。


2.飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭、推古天皇~元明天皇)
 推古天皇を中心とした三頭政治(聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐)が始まり、天皇を中心とした中央集権体制を目指した。593年、太子は四天王寺を建立する。594年、仏教興隆の詔を発した。595年、高句麗の僧慧慈が渡来した。馬子は日本最初の本格的な伽藍配置をもつ飛鳥寺を建立する。598年、隋が高句麗に侵攻。600年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。601年、太子は斑鳩宮を造営した。602年、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、来目皇子の死去のため、遠征は中止となった。603年、冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であった。604年、十七条憲法を制定した。607年、小野妹子と鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。607年、太子は法隆寺を建立する。612年、隋の煬帝、高句麗に遠征するも敗退。618年、李淵が隋の煬帝を殺害し、唐を建国。620年、太子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。622年、斑鳩宮で倒れ、そのまま逝去。皇極の御代になると、蘇我氏の専横が目立つようになる。蘇我蝦夷は入鹿を勝手に大臣にする。642年、百済が新羅の諸城を攻める。643年、新羅が唐に援軍を請う。同年、入鹿は蘇我氏と対立してきた聖徳太子の子、山背大兄王を斑鳩に襲撃した。王は、自分の挙兵によって戦が起き、人々が死ぬのは忍びないとして、自害。この事件により蘇我氏の権勢はますます高まり、蝦夷の横暴と若い入鹿の強硬な政治姿勢に次第に朝廷の中で孤立を深めていった。
 645年、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する(乙巳の変)。蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅亡。翌646年、皇子は難波の宮で改新の詔を宣する(大化の改新)。 薄葬令、品部廃止の詔が出される。646年、冠位19階を制定する。653年、遣唐使を送る。中大兄皇子、幸徳らを難波宮に残し、飛鳥に移る。658年、唐が高句麗へ派兵。660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。661年、中大兄皇子が称制す。663年、百済復興を目指し、新羅軍を撃破すべく2万7千の軍を派遣するも、唐軍に白村江の戦で大敗する(百済の役)。664年、冠位26階を制定.兵士・民部・家部の制「甲氏の宣」を施行。唐の使者郭務悰が来日。対馬、壱岐、筑紫に防人を配置し、筑紫に水城を築き、唐・新羅の来襲に備える。667年、中大兄皇子、大津の宮に遷都。唐・新羅が高句麗へ侵攻。668年、天智が即位。高句麗が滅亡する。670年、全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。671年、近江令を施行.太政官制開始。天智天皇没する。
 672年、古代日本最大の内乱である壬申の乱が起る。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が朝廷軍に勝利し大友皇子が自殺という、類稀な内乱であった。翌673年、天武は飛鳥浄御原宮で即位し、唐に対抗できる国家体制の確立を図る。681年、飛鳥浄御原令の編纂を開始し、草壁皇子を皇太子とする。681年、 『帝紀』『旧辞』などの筆録・編集開始(『日本書記』)の詔。「禁式92条」の制定。日本および天皇の称号を用いる。藤原不
比等、天武・草壁を補佐。684年、天武が後の藤原京を巡行、八色の姓の制定。685年、四十八階冠位制を施行。 686年天武が没する。689年、草壁皇子が没する。690年、持統が即位する。飛鳥浄御原管制を施行。戸令により、庚寅年籍を作る。694年、藤原京へ遷都。696年、高市皇子が没する。697年、持統が譲位し、文武が即位。701年、大宝律令を施行。703年、持統が没する。707年、藤原不比等の官僚として活躍を認め200戸の封土を与える。文武が没し、元明が即位。710年、平城京に遷都。712年、太朝臣安萬侶が『古事記』を献上。713年、諸国に『風土記』の編纂を命じる。714年、首皇子が立太子になる。715年、元明が譲位して、元正が即位。718年、養老律令が完成。720年、舎人親王らが『日本書記』を奏上。藤原不比等没する。721年、元明が没する。724年、元正が譲位し、聖武が即位する。

3.飛鳥・白鳳文化の開化と日本の国家体制の確立 と都城の建設
 倭国は百済と同盟関係を組み、高句麗の南下とその影響を受けた新羅の侵攻に当たり、512年には百済に任那4県を割譲した。また、538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。しかし、554年、聖名王が新羅で戦死する。ついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。658年、唐が高句麗へ派兵。660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。さらに、667年、唐・新羅が高句麗へ侵攻。668年、高句麗が滅亡する。この任那、百済さらに高句麗の滅亡により、五月雨的に、南朝鮮の倭人の帰来、仏僧・知識人・工人が倭国に避難、渡来した。かくて、推古朝を頂点として大和を中心に仏教文化の飛鳥文化が開花した。飛鳥文化の時期は、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受けた、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され、仏教文化の最初の興隆期であった。それに続く、白鳳文化とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表されるものである。なお、白鳳とは『日本書紀』に現れない元号(逸元号などという)の一つである(しかし『続日本紀』には白鳳が記されている)。天武天皇の頃には使用されたと考えられており、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
 ヤマト王権は大化の改新以降、強大な唐に対抗できる国家体制を確立しようとした。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令で初めて国家体制を敷いた重要な時期と重なっている。681年、天武は『日本書記』の編纂開始の詔を出し、日本および天皇の称号を用いた。日本は任那の同義語であり、ヤマト王権は天皇家の故地である任那の滅亡にともなう新しい時代に対応して、国家的自立と自負を表明するため、‘任那’の栄光の記憶を復活し、しかも‘日の御子’の治める国にふさわしく‘日本’という国号を立てたのではあるまいか。天武朝では新しい国家の首都である藤原京の造営が始まったが、この宮が日本で最初の都市といえる。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇(持統・文武・元明)に続けて使用された宮となったことが大きな特徴としてあげられる。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられる。藤原京は宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造され、710年に遷都された。さらに、712年、『古事記』、太朝臣安萬侶によって献上さる。720年、舎人親王らにより日本の正史である『日本書記』が奏上される。

                   あ と が き

 筆者は、近江商人の里(五個荘)で生まれ、優麗な三上山を対岸に眺められる湖族の浦(堅田)で育ち、生来の歴史好きで謎に満ちた近江の古代史に興味を抱いていた。明治時代に三上山の麓の大岩山古墳から国内最大級の銅鐸が多数見つかり、また20世紀末には、守山市で弥生時代後期の伊勢遺跡という我が国最大級の大規模遺跡がみつかった。伊勢遺跡は、大己貴の国(玉牆の内つ国)の都ではないか?卑弥呼は伊勢遺跡より邪馬台国の纏向遺跡に遷った。さらに、2016年、彦根市で大規模集落跡の稲部(いなべ)遺跡が見つかった。この遺跡は、纏向遺跡を都とする邪馬台国に対抗した狗奴国の都ではないか? これらの古墳や遺跡は、近江が『古の日本(倭)の歴史』の主な舞台だったことを示唆する。
 筆者は、ゲノム科学の素養があったので、最近急速に発展した旧石器人、新石器人さらには古代人のゲノム解析に大いに興味をもち、その成果を漁ったところ、人類学・考古学はもはやゲノム解析がなければなり立たなくなっていることを知るに至った。このことがきっかけで、生来の興味の対象であった『古の日本(倭)の歴史』に還暦の頃から入り込んでいった。古希を過ぎるころには我田引水ながらも旧石器時代から飛時代に至る筆者なりの倭の歴史を構築できるようになった。喜寿を迎えている本年、自分で一応満足できる完成版(最新版)を公表するに至った。
 『古の日本(倭)の歴史』を拝読して頂ければわかるように、文献学、考古学さらには太古人・古代人のゲノム解析を含む広範な知見を鑑み、かつ先人の日本古代史研究に敬意を払いつつ、筆者独自の古代日本史観を提示できた。まず、近年のゲノム学の進展により明白にされた「日本人の成立のモデル」を提唱した。さらに。瓊瓊杵や彦火明の天孫降臨は1世紀半ばの出来事であることを論証し、紀元前1世紀から4世紀までの日本古代史を皇統を軸にして再構成した。
 弥生時代の倭国の主人公は大国主であり、2世紀初めに近畿を中心とする大己貴の国(玉牆の内つ国)を建てた。2世紀半ばの饒速日の東征、さらに3世紀初めの邪馬台国建国により、大己貴の国は解体され、饒速日の邪馬台国と大国主の玉牆の内つ国の後継国の狗奴国に分裂した。3世紀末の 崇神東征(神武東征の主要部分)により邪馬台国内の大国主勢力が一掃され、大和にヤマト王権(崇神王朝)が建てられた。この倭の歴史の構築で、『記紀』では殆ど無視されている近江の古代史を浮かび上がらせた。日本の古代史の先人方にとってとても受け入れられない筆者の特異な見解が多々あると思う。老齢のゲノム科学者が15年に亘って推敲を重ねて纏めた古代史にも新規な見解や洞察があり、今後の日本の古代史の展開への指標・道標になろうかと考えている。

                           令和5年6月  藤田泰太郎

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